九谷焼とは

 九谷焼の一番の特徴は、「呉須(ごす)」とよばれる黒色で線描きし、「五彩」とよばれる、赤・黄・緑・紫・紺青の5色での絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法です。

 絵柄は山水、花鳥、など絵画的で大胆な上絵付けがなされているものがあり、力強い印象を与えるものから、繊細なものまで幅広く存在します。

 春日山の開窯をきっかけに、若杉窯、吉田屋窯、宮本屋窯、小野窯、松山窯が次々と開窯し、それぞれの地域や技法の特徴を活かした作品が作られました。

特に、吉田屋窯の決して赤を使わない「青九谷」や、宮本屋窯の赤絵金彩の「赤九谷」などはその特徴がよく表れています。 

 また、明治にかけて九谷庄三の「金襴手(きんらんで)」という技法が一世を風靡し、1873年のウィーン万博での出展を機に「ジャパンクタニ」として、世界的にも有名になりました。

 現代においても、これらの技法が引き継がれ、さらなる発展を遂げています。

関連年表

1655年 九谷村で最初の窯が開かれる

1798年 粟生屋源右衛門の父・源兵衛が小松で素焼きを行う

1805年 林八兵衛が若杉窯を開く

1807年 京都の陶工・青木木米が島原出身の陶工・本多貞吉を伴って金沢に入り、春日山窯を開く

1811年 本多貞吉、花坂村に磁鉱(花坂陶石)を発見し、若杉窯で磁器生産を始める

1824年 吉田屋の四代豊田伝右衛門が粟生屋源右衛門と清兵衛とともに、江沼郡九谷村で吉田屋窯を開く

1832年 宮本屋宇右衛門が吉田屋窯を買収して、宮本窯を開く

1836年 若杉陶器所が火災で焼失、隣村の八幡に移る

1841年 九谷庄三が寺井で絵付窯を開く

1865年 京都の陶工・永楽和全が大聖寺藩に招かれ、九谷本窯を指導する

1873年 ウィーン万国博覧会が開催され、九谷焼作品が多数出品される

1877年 第一回内国勧業博覧会にて九谷庄三らの作品が出品される

1953年 初代徳田八十吉が上絵付(九谷)で、助成の措置を講ずべき無形文化財に選定される

画風で見る九谷の歴史

古九谷(1650頃~1700頃)

  • 明暦年間(約360年前)
  • 力強い描写と重厚な色彩
  • 青、黄、赤、紫、紺青の五彩を用いる
  • 草花山水が描かれている作品が多い
  • 後期において100年ほど生産が中断される

木米(1805~1817)

  • 文化年間(約200年前)
  • 全国三銘陶の一人、青木木米により生産が再開
  • 前面に赤色を使い、人物を置く書き込んだ中国風の作品が多い

吉田屋(1818~1829)

  • 文政年間(約180年前)
  • 豪商であった豊田家(屋号:吉田屋)が開く
  • 古九谷の特徴が色濃く受け継がれ、花鳥・山水・小紋などを用いた重厚な作風が多く描かれている

飯田屋(1830~1845)

  • 天保年間(約170年前)
  • 全面に赤を使いながら、中国風の風俗文様を描く作品が多い
  • 徐々に金彩が加わり、人物や小紋様を綿密に描く作品も登場する

庄三(1860~1880)

  • 明治初年(約160年前)
  • 西洋文化が入り混じる和洋折衷の作風
  • 「彩色金爛手」と呼ばれる技法により繊細で豪華な作品が多い
  • 花、鳥、人物など様々な図柄が描かれる
  • これまでの手法をすべて取り入れており、明治以降、一世を風靡した

 

永楽(1865~1868)

  • 慶応年間(約140年前)
  • 永楽和全による京焼金爛手に影響を受けた手法
  • 全面を赤で塗った後、その上に金を用いて彩色した豪華絢爛な作風
  • 金爛風とも呼ばれ、花鳥獣虫の図柄が多く描かれる

やきもの産地、加賀八幡を歩く

 江戸時代17世紀に石川県の山中温泉奥に位置する九谷の地において、磁器が焼かれました。これが古九谷です。しかし、この焼き物は多く謎に包まれています。

 江戸後期には、近辺において古九谷を再興する窯が築かれます。文化8年(1811年)に築かれた若杉窯もそのひとつです。しかし、若杉陶器所が焼けたので、天保7年(1836年)に石川県小松市の加賀八幡に移転しました。

 以来、この地では焼きものづくりが盛んです。今でも九谷焼置物の素地は、ほとんど加賀八幡で生産されており、街のあちこちで「焼き物の里」らしい景観に合うことができます。

 ちなみに、昭和40年まで使用されていた加賀八幡最後の登窯が、小松市立登窯展示館として保存され、見学することができます。